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メディアの仕事を手伝うきっかけとなった雑誌《POPEYE》5号の表紙。この後《円盤話》という連載をさせてもらいました。

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フリスビー草創期のレジェンドたちにドイツの制作会社がインタビューしたドキュメンタリー映画《THE INVISIBLE STRING》予告版。小林信也も終盤(2分)に登場します。

【小林信也フリスビーの歩みと実績】

1976年10月 日米フリスビーチャンピオンシップ(両国講堂)日本代表。

1977年3月 北米人以外で最初のワールドクラス・フリスビー・マスター検定に合格。

1977年8月 フリスビー世界選手権(フリスビー・ローズボウル)日本代表。

1979年7月 全日本選手権ガッツ部門優勝。

1979年8月 フリスビー世界選手権日本代表。

1986年11月 全日本選手権ディスクゴルフ部門でプレーオフを制し優勝。DDC優勝。

1987年8月 USオープンディスクゴルフ、二アミンコンテストで優勝。

1990年 LARK東京オープン、1991年 LARKジャパンオープンをプロデュース。賞金総額400万円世界最高額の優勝賞金大会を日本で開催。

1991年 自ら発掘、勧誘した大島寛選手のコーチとしてUSオープンディスタンス部門(遠投競技)優勝を果たす。フリスビーの世界一は、アジア、ヨーロッパ人として史上初の歴史的出来事。

1992年10月 ディスクゴルフ・ジャパンオープン・マスターズで優勝。

1992年 PDGA(本部アメリカ)よりディスクゴルフ名誉の殿堂入り表彰を受ける(世界で7人目、日本で初)

日本フリスビー協会ディレクター、JPDGA日本ディスクゴルフ協会会長など歴任。

Frisbee changed my life

​「フリスビーの小林クン」を知っていますか?

← 表紙の顔は外国人ですが、イラストのモデルは小林信也です(笑) 

 

 僕が他のスポーツライターと少し違うのは、元々の性格に加えて、フリスビーの経験が大きいと思います。大学時代、人気雑誌《ポパイ》で連載コラムを書かせてもらっていた僕は世間から「フリスビーの小林クン」と呼ばれていました。

 フリスビーにのめりこんだのは、放物線が当たり前のボールと違って、まるでUFOのように地面すれすれから浮き上がり、どこまでも飛んでいきそうな浮遊感に魅せられたからです。

 高校時代、憧れて入部した野球部は想像とまったく違う側面を持っていました。厳しさは覚悟していましたが、実際に苦しめられたのは、「心の自由」を奪われる辛さ、自由な時間がほとんどない日常生活でした。

 自宅に戻って夕飯を食べ、自主トレのランニングに出かけ、お風呂に入り、疲れて眠る毎日。練習が始まれば、心の自由は抑えつけられました。僕が野球を好きなのは、自分の中でインナーゲームを楽しむことだったと気づかされました。鬼と呼ばれた監督は、そんな楽しみを解さない、僕が好きな野球と、監督が強いる野球には大きな開きがあったのです。それでも従順な僕はもちろん監督に従いましたし、監督に評価されたいと必死に願って日々を過ごしました。いま思えば悲しいくらいの献身。そのため、葛藤は募るばかりでした。

 高校を卒業し、なぜ高校野球は好きな野球が嫌いになるような封建的な体質なのか? もっと科学的な指導ができないのか? 素朴な疑問がふくらみました。スポーツライターの道に自然と踏み込んだのは、その答えを見つけたかったからでしょうか。野球をやめ、野球以外に打ち込むものが見つけられず悶々としていた僕が大学二年の春に出会ったのがフリスビーでした。まだ日本に選手がほとんどいない時代、フリスビーに熱中した僕はすぐ日本で一、二を争うプレーヤーになりました。日本代表に選ばれ、両国・日大講堂で開かれた「日米フリスビー・チャンピオンシップ」に出場。その模様は夜、NHKスポーツニュースで放送されました。そこで出会ったアメリカ選手たちを頼って、翌春カリフォルニアに渡りました。約1ヵ月間、チャンピオンたちの家を転々と訪ね、フリスビーの技術だけでなく、彼らのライフスタイルや人生観に触れた。その経験がいまに至る僕の精神的な土台に大きく影響を与えています。

「イッツ・フォー・ファン!」(楽しむためにやっているんだ!)

 彼らの練習には、根性はかけらもありませんでした。練習という概念もない。プレー! つまり、遊びそのもの。だけど僕にはとても着いていけないハードワーク。1時間でも2時間でも、アメリカのプレーヤーたちは走り続け、円盤と戯れ追い続ける。そのエネルギーは“根性”でなく「好きだ」という気持ち、「もっと楽しみたい!」という情熱。僕は激しい衝撃を受けました。  世界チャンピオンたちは、惜しげも無く自分のテクニックを、日本から一人でやってきた僕に教えてくれました。手取り足取り。そこには、ぎすぎすした競争の息苦しさはなく、ライバルもみな仲間だという大らかで幸せな空気があふれていました。

 そのような経験を日本の野球でする機会はいまも少ないでしょう。青春時代、フリスビーで味わった衝撃は僕の人生の道しるべでもあります。だから、他のスポーツライターや体育会育ちの指導者たちとはちょっと違うのかもしれません。相手の素晴らしいプレーに感動する、野球が好きなら当たり前の気持ち。ナイスプレー! 思わず声が出て、拍手を贈る。それは優等生的な振る舞いでなく、ごく自然な感覚です。

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